09 戸隠講
東大和市に古くからあった講の一つに戸隠講(とがくしこう)があります。長野県北部、戸隠にある戸隠神社の祭神である手力雄命(たじからおのみこと)を信仰する講で、五穀豊じょうの神として古くから信仰されてきました。
開講は、御師(おし)の家が昭和二十三年に焼失して、それ以前の記録が残っていないのではっきりしませんが、明治のころであろうといわれています。今では貯水池の下に沈んでしまった宅部村では、当時、東久留米にある講に入っていました。そのうち講中が多くなって、
「こんなに大ぜい来てくれるのなら、宅部にも講を作ってくれ。」
といわれて、清水と狭山では宅部講として二十名の講中で始め、移転後もそのまま続いています。
昔は、九つの頭を持つ竜が本尊を守っていたことから、九頭竜(くずりゅう)講といっていました。
東大和市には、この他に清水と芋窪に講が残っており、現在も盛んに行われています。
戸隠講には代参で行くということはなく、昔から神主が講元または世話人の家に来て、講中に祈とうしました。
神主は、宿につくと幣束(へいそく)を切り、常口(じょうぐち)に真竹を立て、しめを張ります。床の間にしめを張り、戸隠神社の祭神の表具を掛け、お神酒、榊(さかき)、米、塩、お頭付、収穫した野菜、果物など、山海の産物を供えて祝詞(のりと)をあげ、講中の名を一人一人呼び上げてお祓(はら)いをします。お札を受けた後、お日待になり、翌年の講元・世話人を決めて、うどんなどご馳走(ちそう)になります。
昔は五、六月によく雹(ひょう)が降りました。農家にとって雹の被害は大きく、雹荒れの被害がないように祈願したのです。
榛名(はるな)神社にも雹除けの祈願に代参で行きました。昔は榛名の雹と、戸隠の雹とは違っていたといわれています。榛名からくる雹は弱く、戸隠からもってくる雹は強かった(塊が大きかった)といい、いかに雹に関心があったかがうかがえます。気流の関係か、貯水池が出来てからは強い雹は降らなくなりました。
また戸隠の神は霜に対する信仰も厚く、桑は霜に弱かったので養蚕(ようさん)が盛んだった頃は講中も五十名ほどいました。
昔は東大和から戸隠へ詣でるということはあまりなかったようです。越後との国境に近く、標高一、九一一メートルという雪深い山にあり、中世には戸隠三千坊と称し、修験道場(しゅげんどうじょう)でした。
毎年神主さんが三月に山を下りる時は、雪が三尺(一メートル)位あるといいます。昭和五十三年の豪雪の折は、奥社が雪でつぶれてしまいました。
代参ではなく、講中の有志が十名前後で参詣することがあります。戸隠には宿坊が三十七軒あって、こちらから参った時は宿坊に泊まります。終戦後の食糧難で、さつまいもを背負えるだけ背負って、やっと手に入れた切符で苦労して参った事があります。昭和二十三年秋でした。着いたら御師の宿坊は焼けて蔵住まいでした。(p20~22)